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第四話 食物連鎖の頂点に立つ者(後編)

浅い海だけがせわしなく荒れている。

コンクリートの上にこの海はできている。
多くの小さな水溜りが集まってこの海はできている。
この時期には珍しい大雨でこの海はできている。
だったら、これは海ではなく、ただの大きな水溜りだと笑う人もいるだろう。

ならば、海とは何か?

舐めると、しょっぱいのが海?
多くの生命が育んでいるのが海?
波や砂浜を持つのが海?

否。

見渡す限り、水に覆われているモノこそが海なのだと私は思う。
だから、今、ココを覆っているのは紛れもない海なのだ。

ココで聞くことができる音はバシャ、バシャと海面を叩く音だけ。
しかし、こんなにも騒がしいのにどうして寂しさを覚えるのだろう?
夜という時刻が海を暗黒に染めたから?
大雨という天候が人や生命の気配を完全に消したから?

否。

浅い暗黒の海が侵そうとし、それでも侵される事なく毅然と建っているココこそが元々寂しい場所だからこそこんなにも寂しいのだ。

本来の目的から乖離し、多くの人間の欲望を満たすだけに建てられた悲しき場所。
結果、その欲望さえ満たせずに崩壊した寂しき場所。

ココは、御川(みがわ)市旧第四植物工場。

そんな旧植物工場の敷地内に一台の車が侵入する。

一面に広がる浅い海を、モーゼのごとく断裂しながら進むその車の色は黒。
しかし、その黒色は古来の日本陶器を思わせるような少し青みがかった端麗な漆黒であり、この暗黒な海のなかでも、いや、むしろその車のヘッドライトよりも悠然とその存在感を輝かせている。

その車の名はジャガー製「2代目XKコンバーチブル」。

一昔前に登場したモデルでありながら、流れるような美しいフォルムと、そのフォルムに劣らない最高級の性能を誇る代表的なスポーツカーであり、いまなお多くの男達の羨望を一挙に集めている車である。

この車、コンバーチブルということで、いつもはオープンカー仕様なのだが、天候が悪い日や寒い冬の日などには屋根を閉める事もでき、今夜はゴールデンウィークを直前に控えながらも先に梅雨が来てしまったような大雨のため、当然ながら屋根を閉め、ぶつかってくる雨粒を弾くのではなく、その綺麗なフォルムで後ろに流しながら、美しく、猛スピードで爆走していた。

そして、旧植物工場敷地内に入ってから数秒、目的の場所……工場内に通じる従業員用の正面ゲート手前でこの車は急停車する。

時速90km近い状態からの急停車。
しかも路面はすでに海と化している。

並みの車や運転手なら即刻ハンドルを取られ、滑り、横転し、無残にスクラップになる状況の訳だが、さすがは2代目XKとその運転手。路面は海にも関わらずタイヤはきっちりとアスファルトとかみ合い、タイヤとアスファルトとの摩擦が「キュキイキキキ―――」と見事な音色を紡ぎだし、運転手の華麗なギアチェンジとハンドル捌きにより、車は90度回転しながら美しく一寸の狂いなく停車した。

自動車教習所の教官、もといスタントマンでさえ100点を出す完璧な停車。

にもかかわらず、

「………チッ」

と、この車の運転手である白衣の男は苦々しく舌打ちなんかしやがった。

「全く、こんな住宅街のど真ん中に普通、植物工場なんて作るか? 道は狭いし、複雑。ちっともスピードなんか出やしない」と、続けて文句まで言っている。

この白衣の男…早乙女 カイン(さおとめ かいん)が言っている文句は全くの正論である。
つまり、住宅が密集する中に建てられたこの植物工場は、そのあまりにも道の狭さや複雑さによる交通不便により、栽培した作物を運ぶためのトラックなどの運送機関が円滑に働かなかった為に潰れてしまった訳だ。

なので、早乙女の横…車の助手席に座っている俺、一条 茘枝(いちじょう れいし)は早乙女の文句に対して、『だから潰れたんだろ』とツッコむのがこの場での正解…なんだろうが、残念ながら俺はそこまで空気の読める奴じゃないし、先ほどまで味わっていた無意味な恐怖を冷静に受け止められる人間ではない。
したがって、額に浮かんだ大量の冷や汗を腕で拭いながら、俺は早乙女の文句を無視して自分の文句を今こそ爆発させる。

殺す気かテメェェェェェェェ!!!
どこの世界にこんな狭い住宅街を時速100km前後で走り抜ける車がいる!?
そんな車は見たことねぇ!
なのに、俺はそんな車に乗ったぞ!?
信じられねぇ。
三途の川を渡ってないのが奇跡としか思えねぇ。
知ってるか? 知らないのなら教えてやる。
この住宅街の最高速度は30kmだ!
3倍以上だぞ!? 3倍以上のスピードをお前は出したんだ。
なにか? この車はシャア専用なのか!?
だったら、この車を今すぐ赤く塗りなおせ!
てーか、お前はニュータイプじゃねぇだろぉぉぉぉぉぉ!

………もはや、自分でも意味不明である。

そんな俺の爆発を、いつの間にか点けた煙草の紫煙で完璧に防ぎきった早乙女は「ふん、交通規則など単なる目安にすぎん。俺の愛車の実力はまだまだこんなもんじゃない」と、俺に悪びれる事なく不満げに口を尖らせる。

………はぁ、男である以上俺が早乙女になにを言っても無駄らしい。
このやりきれない怒りを発散するために、俺は何も疑いもせず早乙女の車なんかに乗ってしまった自分を叱るという方法を取りつつ、「つーか、よくいままで警察に捕まらずに生きてこれたな?」と話の方向を変えてみた。

「ん? いや何回かは捕まってるよ、実際。でもまぁ、全部俺の力でもみ消せる訳だし、捕まるとか捕まらないとかあんまり関係なくない?」とサラリという早乙女。

…うん、やっぱ最低だわ、こいつ。

「にしても、初めてきたが思ったよりもデカイな。これは、探すのに手間取りそうだ」と、早乙女は紫煙を口から吐きながら目の前の植物工場をフロントガラス越しに見上げる。

俺もつられて見上げる訳だが、やっぱりいつ見ても不気味な建物だ。
建物っていうのは、その中で人が住んだり、働いたりしてこそ建物としての存在意義があると思う。
なのに、そんな建物にもう何年も人が出入りしていないとなると、もうそれは建物ではなく単なる不気味な「モノ」である。
しかも、この建物は巨大な工場であり、壁沿いに大小様々な太さの錆びたパイプが張りめぐされていて、なんか変なボタンを押したら今すぐにも動き出しそうな雰囲気がさらに不気味度up。
なおかつ、今は夜で真っ暗かつ実は工場の非常灯はまだ生きていて、非常灯の薄青い光が工場の出入り口を中心に照らし出している感じがますます不気味度up。

………う〜ん、そう思うとなんだか入りたくなくなってきたぞ。

という訳で、「本当にこんな所に二人がいるのかよ?」と、俺は一応早乙女に確認してみたりする。
さっきまでの早乙女の運転による無意味な恐怖のせいで一瞬忘れていたが、俺がここに来た理由は食人鬼である坂上 鷹史(さかがみ たかし)・坂上 燕(さかがみ つばめ)どちらか一人を殺しに来たからである。
こんな不気味な工場に入っていって二人がいなかったらシャレにならんよマジで。

「連絡によるとそうらしいな。確かにいい隠れ場所だよココは。広いし、人目につきにくく探しにくい。それでいて周りは住宅街で食糧は豊富。おまけに三年ぐらい前に潰れたにもかかわらず非常時のライフラインはまだ生きてるから、最低限の電気とガスと水は使えるって訳だ。全く、最初から最後までココの管理はずさんだねぇ」と、早乙女はのんきに答える。

残念ながらやっぱココ(御川市旧第四植物工場)に入らないといけないらしい………。


『植物工場』………昔、我が国は先進国と呼ばれる国の中ではダントツの食料自給率の低さを誇っていた。
そのため、日本は他国との輸入により食糧を維持していた訳だ。
しかし、世界一の人口数を抱える中国の急激な発展、それに伴い中国が大量の食糧を買占め始めた事により、世界は急な食料不足に襲われる事になる。
つまり、日本に輸出される食糧など世界には残っていなかったっていう事だ。

そんな日本を救ったのが植物工場だった。

数年間、食糧飢餓が続いた日本だったが、第二次世界大戦から先進国まで進んでいったあの大和魂を再び燃え上がらせ、日本は日本の高度な技術力と「ラマルキズム」の資金面の援助により、自国内に数多くの植物工場を作っていった。

植物工場とは、野菜や果物などの青果物を工場やビルなどの施設内で育てることを指す。
高度な技術と金は必要だが、都会のオフィスビル群の中で食糧を得る事を可能にし、しかも機械的で人工的な管理により本来日本の気候に合わない食物でも簡単に、短期間に大量に得る事を可能にした。

これにより、日本は現在では食糧自給率87パーセントという素晴らしい値を叩き出している。

だが、儲かりそうな話には後先考えずによってたかって飛びつくのが人間という生物である。

とうぜんながら当時、植物工場は建てられるだけで莫大な利益を生み出す金の源泉だった。
それによって発生したのが、植物工場バブルである。
まぁ、つまり、「安定した食料の供給」という本来の目的を忘れ、ただ利益を得るだけの為に立地条件などを考えずに、我先にと必要以上の植物工場をみんなが建て始めたてしまったのだ。
結果として、機能を十分に活かす事のできなかった多くの植物工場が利益を生み出す事なく潰れ、植物工場バブルは崩壊したのだった。
しかも、潰れた植物工場を建て壊すには大金が必要なので、今なお多くの潰れた植物工場が手をつけられないまま残っているというオマケつき。

これが、食糧自給率87パーセントの裏に潜む影であり、その影の一つが俺の目の前に建っている御川市旧第四植物工場だったりする。


「さてと、そろそろ行きますか」と早乙女は吸い終わった煙草をフロントガラスの手前に置いてあったミカンの皮でもみ消すと、ドアを開け、傘をささずに大雨の外に出て行った。

俺は放課後家に帰らず直接ココまで来てしまったので今は制服姿である。
なので、できれば傘をさして外に出たかったのだが、残念ながら俺は今朝、天気予報を観ていなかった。
よって、俺も「はぁ〜」とため息をつきながら傘を持たずに外に出る事にした。

今思うと、学校で俺の幼馴染である瀬々木 花梨(せせらぎ かりん)に傘を借りとけばよかった。
なにせ今日の俺は「胃にポリープがあるかもしれない」という病人特有の優位性を持っているからな(まぁ、病気はウソなんだけどね)。
あの花梨だったらたとえ傘を一本しか持っていなくても一言返事で傘を貸してくれただろし、花梨なら学校の帰りにびしょ濡れになったとしても決して風邪なんかひくまい………たぶんね。

そんなどーでもいい仮説を立てながら雨に濡れている俺を尻目に、先に出て行った早乙女はと言うと、自慢の車のトランクを開け、中から武器を取り出しており、着々と自身の戦闘準備を進めていたりする。

若干リズムを外しながら能天気に口笛を吹いている早乙女は、まず最初に、赤く染められた長細い布袋を取り出す。
一見、長い釣竿が入っているように見えるこの布袋。
だが、布袋の先端を縛っていたヒモを解き、早乙女が取り出した布袋の中身は当然ながら釣竿なんかではなく、早乙女 カインが所有する第一の武器である。

その武器とは、日本刀であり、名を「朱雀(すざく)」という。

三年前、俺はこの「朱雀」を携えた早乙女と一戦交わり、結果ズタズタに体を切り刻まれるという経験をしており、あんまりこの「朱雀」に対しては良い印象を持っていないのだが、それでも頑張って詳細に説明させてもらうと、「朱雀」は太刀という種類に分類される日本刀である。
長さは太刀としては平均的な80cm、反りも緩やかな曲線を描く程度、鞘や鍔・柄の色は全て同じ上質な黒漆なのだが、飾りや細工が全く見られない。
ようは、博物館に展示しても素通りされてしまうような地味な外見の日本刀な訳だが、実は地味なのは外見だけであり、鞘から抜き放たれた姿は「朱雀」の名を冠するに相応しい美しさを誇ってたりする。…う〜ん、なんというギャップ!

一言で言うと、刀身の色が赤なのだ。
しかも宝石のルビーを少しだけ濁したぐらいのクリアレッド。
飲み物で例えるなら10年ぐらい寝かしたボルドー産の赤ワイン。
信じられない?
…いや、マジだって! 信じられないかも知れないけどマジで赤いんだって。

確かに俺も「朱雀」を見るまで美しい赤色を放つ金属なんて見たことも聞いたこともなかったが、早乙女いわく、これは「レーヴァテイン」と呼ばれるラマルキズムが新しく開発した金属らしい。
特徴は、頑丈。しかし、加工はとても難しく、それに重い。
それゆえ、この「朱雀」に刃紋をつける事ができなかったし、切れ味もいまひとつ。

………なんでそんな使えない素材で日本刀を作ったんだろうね、コイツ(早乙女)は。

という当然な疑問をいままで何度も口に出しそうになったが、かなりの高確率で「単にキレイだから」と返答されるおそれがあり、その場合、俺はこんな粗末な日本刀に負けた事になり、それはなんだか認めるのが癪なので、未だに明確にその理由を聞いたことがなかったりする。

そんな日本刀「朱雀」を鞘ごと幕末の新撰組よろしく腰の左側のベルトに押し込むと、早乙女は第二の武器をトランクから出し始める。

大剣「玄武(げんぶ)」それが、第二の武器の名である。

日本刀「朱雀」とは違い、焦げ茶色のおしゃれな革製の鞘に包まれたこの大剣「玄武」、とにかくデカイ。
170cmという長さはもちろんの事、収まっている鞘から容易に想像できる40cmを超えるであろう刃幅、10cm強の厚みは現存する古代西洋のグレートソードの常識を軽く飛び越え、もはやゲームやファンタジーの世界の両手剣を体現化している。

とはいっても、実は俺、「玄武」が鞘から抜かれた姿を見たことがない。
その理由は、いつも早乙女が「朱雀」のみで仕事を片付けてしまうからに他ならず、したがって、実際の刀身がどのようになっているのかは謎のわけだが、少なくても破壊力は花梨の中華のように抜群なんだろうよ。

今回も使う事はないであろう大剣「玄武」を、鞘から伸びている紐でたすき掛けの要領で白衣の下から背中に固定し、これで早乙女の戦闘準備は完了した。

白衣を着込み、その下から日本刀と大剣の一部を覗かせる早乙女の戦闘スタイル、頭の中で想像すると猟犬として有名なドーベルマンにフリフリが付いたピンク色のお洋服を着せるぐらい似合わないはずだが、全国の平均的な男子諸君よ、ここで悲しい事実が判明する。
背が高く、顔がかっこいい奴は何を着ても似合うぞ!(泣)

現に、今の早乙女の格好はくやしいかな、さまになっている。
もし今が中世ヨーロッパだったら、騎士団一個中隊ぐらい率いていてもおかしくないぐらいの威圧感というか存在感をその白衣から感じさせている。

そんな軽いジェラシーを感じていた俺は、バタンと車のトランクが閉まる音で我にかえり、「待たせたな」と言う早乙女と共にようやく二人の食人鬼が待つであろう旧植物工場内に足を踏み入れるのであった。

その時には俺も早乙女も雨でびしょ濡れという事実はこの際無視することにした…

余談だが、早乙女の持つ二つの武器、日本刀「朱雀」と大剣「玄武」、その名前の由来は当然ながら中国の四聖獣からきている。

したがって、「白虎(びゃっこ)」と「青龍(せいりゅう)」いう他の四聖獣由来の武器も持っていないとおかしいのだが、早乙女いわく「は? そんなのねーよ」のこと。
じゃあ、なんでそんな名前にしたんだ? と俺の疑問に対しては、少し考えた後「ふっ、よくぞ聞いてくれた。朱雀と玄武っていう名前にしとけば、敵に他にも武器があるのか? という動揺を与える事ができるのさ」と自慢げに言っていた。

しかし、敵にいちいち武器の名前を言うのか? という質問には「そういや、言ったことない」とシラッと答えたあたり、おそらく早乙女は四聖獣のことなど考えずに、ただカッコイイからという理由だけで「朱雀」と「玄武」という名を付けたに違いない。

まぁ、ネーミングセンスは悪くないから許すけどね。


では、本編に戻ろう。

雨から逃れるように蛾などの多くの羽虫が群がる青白い非常灯が照らし出す従業員のゲートを入るとそこは細長い通路だった。

両手をめいいっぱい広げると壁に手がついてしまうぐらいに狭いが、予想よりは暗くはない。
理由はやはり非常灯が生きているからに他ならず、おかげで手探りで進む必要性はなくなり、ホッとする。
青白い闇のおかげでより不気味に感じるのはこの際置いとくが…

その細い通路をコツコツと進むとすぐに左右の分かれ道に行き着いた。

「どっちに進めば当たりかな?」と、いつの間にか紫煙を吐きながら早乙女は渋い顔をする。

こんな換気ができない狭いとこで紫煙を吐くんじゃねぇ〜と俺も渋い顔をしながら、確かこの植物工場は東棟と西棟に分かれていて、右に進めば東棟、左に進めば西棟に行けるはずだと親切に教えてやる。

「詳しいな?」と意外な顔をする早乙女。

去年、ミステリー好きの悪友に一度連れられてきた事があってな。結局なんにも見つけられなかったけど。

「あぁ、九重院 晃(くじゅういん あきら)だっけ? 彼は変わってるよね」とハハハと笑う早乙女。

…お前がいうな。

「よせよ照れるぜ。…ってことはここで別れるしかねーな」と、どうやら「変わってるね」が自分にとっては褒め言葉らしい白衣の変人は頭をテヘヘとかきながらいう。

俺にはヤロウのデレ顔に萌える趣味はねーぞ。

「そうか、そいつは残念。一条君が萌えるのは殺人だけでしたね」と、ヘラヘラ言うアホ。

  うるせーよ。
で? 別れることには賛成だが、俺がもし2人とも見つけたら両方貰っちまっていいのか?

「それは困る。その場合は必ずどっちか一人を残すように善処しろ。上から怒られるのはごめんだ。俺が二人を発見した場合でも一条のために一人は残しとくからさ」

「わかった」早乙女が上から怒られるのは大いに歓迎だが、そのせいで俺がバイトを首になるのは勘弁だからな。ここは率直に従おう。

「んじゃ、俺はこっちに行くわ〜。もしそっちで二人を見つけたら電話くれ。…あー、あと万が一もないと思うが、死ぬなよ? 片づけるのメンドイから」と、自分の残業の 心配しかしていない早乙女は紫煙だけを残して東棟へと続く闇へと消えて行った。

「…それじゃあ、俺は西棟だな」俺は進路を左に変え、西棟へと続く青白い闇にもぐって行った。


なんも面白味のないコンクリートの壁を眺めながらしばらく西棟へと続く通路を進んで行くと、銀色の分厚そうなドアの前に行き着いた。
その錆びてやけに重い取っ手を引き、中に入ると、そこが西棟1階フロアである。

あいかわらず薄暗くて冷ややかな空気を持っているが、さきほどの通路と違い、とにかく広い。
この暗さのために、20m先を見るのがせいぜいで実際にどれぐらいの広さかは目認できないが、去年訪れた時は1フロアを横断するのに10分以上かかった記憶があるので、少なくとも300uはあるのだろう。

一応、感覚を研ぎすまし1階フロアに人の気配がするかどうか人並みに探ってみたが、案の定このフロアにはそういった気配はないみたいなので、「またここに来ることになるとはね…」と、とりあえず暇と寂しさを紛らわす為に独り言を呟いてみる。
が、俺のそんな言葉はあっさりと広い闇に吸い込まれ、「……」まるでこの世界に住んでいるのは自分だけ? みたいなアホな妄想を生み出す結果になってしまった。
そんな妄想を振り払うために、入り口付近に設置されてある作業員用と貨物用両方のエレベーターのボタンを連打してみたが、やっぱり去年と同様うんともすんとも反応がない。
まぁ、非常用の電気系統しか生きてないんだから当たり前なんだけどね。

「…うん、もし俺が無人島に行くはめになって、何か1つだけ持っていけるとしたら、俺は是非とも話し相手を持って行きたい」などと、どうでもいい決意をしつつ俺は早々とこの広い1階フロアを抜ける事にした。


さきほど、この西棟フロアはとてつもなく広いと表現したが、残念ながらこの広さを味わうことができるのは目と脳だけであり、実際に歩ける通路は狭かったりする。

フロアを二分するように直線に伸びている通路が狭い理由としては、フロアの大半がとある部屋として使われているからに他ならず、それでも広く見える理由としては、通路と部屋を隔てる壁が強化ガラスで透明だからである。
もちろんフロアの大半を占めている、とある部屋とは、「植物工場」という名前の通り、作物を人工的に育成するための部屋である。
なので、強化ガラスの外側から部屋の中を覗きながら進むことができる。

どうやら、この一階フロアはレタスや白菜などの葉物を育成していたらしい。

右に顔を向ければ、普通の畑のよう見える土壌に葉物の残滓が埋まっているのが見れるし、左を向けば、大小様々なカプセルの中に枯れてたり腐敗したレタスが入っている。

男の子というのは一度は科学者という職業に憧れる動物であり、その憧れを衰退させ忘却した今でもこのような科学的な施設を見ればやはり興奮するというか、面白い。
というわけで、俺はわりかし飽きることなく1階フロアを横断し終わり、足音を響かせながら奥の階段をのぼり2階フロアに足を踏み入れた。


2階フロアにも人の気配は感じられない。

「おそらく、4階なんだろうな…」とため息をつきながら、俺は2階、夏野菜施設を眺めながら横断することにした。

実はこの植物工場のどこに食人鬼がいるのか、だいたい見当はついていたりする。
それはもちろん以前にここに来た事がある経験からくる推測で、この御川市旧第四植物工場を構成する東棟と西棟はそれぞれ4階分のフロアを持っている。
1階から3階までのフロアは、このフロアのように作物を育成させるために使われている訳だが、最上階の4階だけその用途は異なっており、それが俺に食人鬼は4階にいるだろうと推測させている。

つまるところ、4階には事務所やら給湯室などの作業員用の設備やらが収まっており、4階でなら人肉の調理や最低限の生活をする事が可能なはずなのだ。
という事はだ、高確率で4階に目的のターゲットがいるはずなのに、どうして俺は階段で一気に1階から4階までいかずに、2階にいるのか? という話になってくる。
それは、さきほどのため息から汲み取って欲しいのだが、1階から4階へ一気に行く事が不可能だからである。

よく分からんが、階段が1階から4階まで直線上につながっていないのだ。
つまり、エレベーターが使えないこの状況で4階まで行くには、1階フロアを横断し奥の階段を上り2階に入り、2階フロアを横断し奥の階段を上り3階へ、3階フロアを横断し奥の階段を使い4階へと、あみだくじのように進まないとならないわけ。
…どこのゲームのダンジョンだよ、ココは!
この不自由さもここが潰れた原因の1つに違いない。
などと、文句をブツブツ言いながら俺はそんな訳で暗い2階を横断しているのであった。

2階フロアも、巨大な三角形の筒を空中で横に倒し、その3面全ての側面に枯れたキュウリの苗がビッシリと生えていたり、1階と同じようなカプセルにしなびたナスらしきものが入っていたりなど、強化ガラスの向こう側にはなかなか面白い光景が広がっていたのだが、それを長々と歩きながら眺めるのも流石に飽きてきた。

この植物工場がいまでも稼動してて、若々しく生命力溢れる緑や色彩豊かな青果物を見ることができたり、忙しく稼動しているロボットを見ることができたのなら、飽きることはなかったのだろうが…そんな光景をとうの昔に置いてきた廃れたココを見ていると、だんだんと飽きてくるどころか、むしろ時の虚しさを感じさせ、なんとなく切ない気持ちにまでなってくる。
残念ながら、俺はそのような空虚な心に「美」を感じることができる詩人のような人間ではないので、かぶりをふってさっさとこの切なさを心から追い出し、去年ここに来た記憶を思い出す事で暇を紛らわすことにした。


『茘枝、拙者と一緒に亡者を見にいかぬか!?』

去年の夏休み中盤に差しかかった頃、窓を完全に閉め、クーラーをガンガン効かせることで外の熱気を完膚無きまでに追い出した自分の部屋で惰眠をむさぼっていた俺は、携帯電話越しから聞こえるそんな九重院の暑苦しい声で叩き起こされた。

今にして思えば、なんでその誘いに乗ってしまったのだろうか?

出会ってから半年しか経っていないとはいえ、ミステリーサークル部という謎の部活に所属している九重院 晃の誘いに乗るのは危険だと重々承知していたはずなのに。

しかし、しかし、それは断じて自分のせいではない。
仕方なかったのだ、大多数の学生がこの時期に取り憑かれると言われる悪魔に、俺も取り憑かれていたのだから。

夏休みの中盤から現れるという「何もする事がなくて暇すぎる」という名の悪魔に!

そんな悪魔に取り憑かれてしまった当時高校1年生の俺は、ダラダラ滝のような汗をかきながら、九重院から電話で言われた通りの場所…御川市旧第四植物工場前に辿り着いたわけだが、そこには俺と同じ悪魔に取り憑かれた奴が他に2名もいやがった。
言うまでもなく、幼馴染である瀬々木 花梨と友達の江口 洋介(えぐち ようすけ)である。

そんな訳で俺たち4人は、九重院のいう亡者…つまり幽霊を探すためにこの旧第四植物工場を探索することになったのだ。

この御川市旧第四植物工場、地元ではけっこう有名な心霊スポットだったりして、この時期になると夜な夜な肝試しの会場として使われていた。
それに興味をもった九重院が本当に幽霊という非科学的なものが存在するかどうか調査する為に今回の会が開かれたわけで、別に肝試しではないのだからという理由で、夏の太陽がギラギラ輝く昼間に行うことになってしまったこの中途半端加減はこの際、目をつぶる事にした。

が、俺達の予想に反して、踏み込んだ工場の中は完全に肝試しの会場だった。
そういえば植物工場の設計上、日光を取り込む事は人工的な管理の妨げになるという理由から工場には一つも窓が取り付けられておらず、内部の光源は非常灯の青白い光だけという薄暗い闇が待っていたのだ。
しかも、分厚いコンクリートの壁が真夏の太陽光を塞ぎきってくれるおかげで、気持ち悪いほど涼しいというおまけつき。

てなわけで、本当に幽霊が出そうな不気味さの中で、幽霊探し…もとい肝試しが始まった。


「肝試し」と聞いて男が憧れるシチュエーションは1つしかないだろう。

そう、一緒に参加した女の子がちょっとした物音や独特の雰囲気に「キャー」と驚いて自分に抱きついてくるあのシチュエーションだ。

そして今、俺の身にはその伝説のシチュエーションが起こっている。

始まりは古びた作物培養用カプセルが地面に落下した音。
「ギャァァー」と叫び声と共に俺の腕をからめとる手。
俺の腕の中でフルフルと震るわせる体。

………当然だが花梨ではないぞ。
花梨をそんじょそこらの女の子と一緒にしないで貰おう。
花梨なら、俺の5m先を行き、近くのコンビニで買ってきたと思われる24枚撮りのインスタントカメラをひっきりなしに覗きながら、「幽霊ちゃん♪まだかなぁ♪まだかなぁ♪」と楽しそうに満面の笑顔で行進している。

という訳で、「…えぇい、離れろバカ」俺は全身の力を込めて、マジでびびってる江口をベリベリと自分の体から引き剥がした。

ちなみに、言いだしっぺの九重院はというと、花梨のさらに5m先を「ガシャン、ガシャン」と音を響かせながら悠然と歩いていた。

余談だが、なぜ九重院が「ガシャン、ガシャン」と音をたてているかというと、九重院の装備に問題があるわけで、頭には工事用ヘルメット、腰にはつるはしをぶら下げ、背中には謎のアンテナを背負い込み……etc,etc。
…俺は見なかった事にした。


しばらく経って、東棟を全て探索し終わり、西棟の2階フロアに足を踏み入れた頃には俺達はすっかり飽きてしまっていた。
もちろん幽霊さんには会えていない。

なので俺達は九重院が持参して来たでかすぎる懐中電灯を使って、手で影絵を作って遊びながら最上階を目指していた。

俺は両手を使い、そこそこ難易度の高い「ヘビの顔」を披露する。
「すごーい♪」「うむ、上手だな」「おぉ、似てるぞ!」と巻き起こる歓声。
俺はちょっと嬉しかったりする。

続いて九重院が「フォンダル星人の顔」を披露する。
「わぁ〜可愛い」「すげー」と巻き起こる歓声。
…いやいや、フォンダル星人ってなんだよ!? ツッコむ俺。

そして、とりの花梨が元気よく「いっくよ〜」と披露したのが「名画:最後の晩餐」。
「うおぉ!!!?」巻き上がる壮絶な歓声。
花梨の両手の影から生まれたキリストと12人の信徒が楽しく食事を取ってる!?
………ぶっちゃけ、手の構造からしてありえない光景がそこにはあった。

「流石は美術部…」俺がこの肝試しの中で1番驚愕した瞬間だった。

こうして何も見つけることができないまま、真夏の御川市旧第四植物工場探索は終わったのだった。


………そんな去年の記憶を思い出す事で暇を潰していた俺は、すでに3階フロア、ジャガイモや大根などの根菜類エリアの半分以上を横断しきっている。

もちろん3階にも人の気配はない。
という事は食人鬼がいるのはやはり4階ということになり(もちろん、二人とも実は東棟にいて遭遇できない可能性もあるが)、いよいよ仕事をする時間が近づいてきた。

と、「…ん?」俺はふとした問題を抱えてしまった。

うちの今夜の夕食は何なんだろうか?

それは、3階フロアを横断し終えるちょっとした時間を潰すために考え始めた、定番のささやかな悩み事だったが、今の俺にはとても重要な問題である事に気が付いた。
なにせ、今までの俺は食べられない物は花梨の中華だけだったが、食人鬼である坂上 鷹史と坂上 燕が作ったらしい人肉料理の影響で、俺はビ−フシチュー・ハンバーグ・コロッケ・ミートソーススパゲッティをしばらくは食べたくないのだ。
こればっかりは自分の母を期待するしかないのだが、それでも、その条件をふまえて自分が今一番食べたいものを考えずにはいられない。

しばし考えた後、「やはり、ここはカレーしかないだろう」という結論を出し、自分の母に対し過度な期待を込め始めた頃には、俺は4階へと続く階段を上り終え、4階フロアに至るドアを開けていた。

「―――マジかよ」俺はポツリと呟く。

あろうことか、踏み入れた4階フロアには…

………カレーの匂いが充満していた。

この偶然に寒気を覚えること一瞬、すぐにこの寒気はこのフロアに少なくても1人は食人鬼がいることへの安堵感に変わる。

そのカレーの匂いや人の気配はどうやら1番奥の部屋から漂ってきているらしい。

俺は一回だけ深呼吸をしてから、通路に面している会議室やらトイレやらの前を通り過ぎ、半ば怒りを感じながら、半ば事件の謎を思慮しながら、半ば興奮を覚えながら、それでいて努めて冷静に1番奥の部屋のドアをゆっくりと開いた。


中は、広い休憩室だった。
部屋を埋めるように大きめのテーブルとイスが等間隔に鎮座され、壁際にはテレビも取り付けられている。
また、今は稼動することのない飲み物やカップラーメン専用の旧世代の自動販売機も数機置かれており、当然ながら、小さなキッチンも部屋の片隅に備え付けられてあった。

そんな小さなキッチンのコンロの上で、キッチンとは不釣合いな大きすぎる寸胴鍋が熱しられていて、その寸胴鍋の中身を童話に出てくる魔女のように念入りに棒でかき混ぜている男の後ろ姿を、俺はドアを開けた時から視界に捉えていた。

弟よりも身長に恵まれているその男は、俺が休憩室のドアを閉める音にピクリと反応し、170cmは超えているであろう体ごと、こちらに振り返る。

その男、坂上 鷹史の第一印象はやはり写真の通り、弟の坂上 隼人(さかがみ はやと)を少しインテリ風にした「優しさ」を売りにしたようなイケメンで、とてもじゃないが人殺し、ましては食人をするような人間には見えない。

が、目の前の食人鬼が眼鏡の奥から俺をジロリと一瞬観察し、「何者だ?」と平坦な声で訊ねた時、俺はやはり目の前の男が食人鬼なのだと瞬時に認識した。

すでに多くの人の命を奪い、それをむさぼってきた経験による自負のような自信からなのか俺のような不審者を見ても動揺しない。

理由は未だに分からんが、鷹史は好き好んで殺人を行い、人肉を食べているのだと直感する。

けれども、俺もそういった奴ほど遠慮なく殺せるので、心の中で細く微笑む。
まぁ、相手がおそらく東棟に居たのであろう坂上 燕ではなかったのが残念だが、それでも十分楽しめそうである。

そんなはやる心を抑えながら「お前を殺しにきた者さ」と俺は簡潔に先ほどの質問に答えてやる。
バカ正直に自分の本名を教えてやるほどの義理はないしな。

「な…に?」まさか自分が狩られる側にまわるとは考えてもいなかったらしい鷹史は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに大げさな笑い声をあげ始める。

「ふっ、あははは…何を言い出すかと思えば俺を殺すだと?…神である俺達をか!? 単なる神への供物でしかない奴が面白い冗談を言うものだ」

エキドナ能力者を相手にする上で頭が少しぶっ飛んでる奴を相手にするのは慣れているつもりだが、今回はさすがに顔をしかめるしかない。
なにせ、やけに抽象的な存在が食人鬼の口から発せられたのだから。
「…神だって?」俺は反芻する。

俺のそんな当然の問いに鷹史は気を良くしたようで、三日月のような笑みを顔に貼り付けながら「そうだ、俺達は神だ。神だからこそ、力を持ち、この世界の頂点に君臨する権利がある!」と堂々と臆することなく言う。

その神の力っていうのが、人を食べることができるエキドナ能力って訳か。

「えきどな? なんだそれは? …それよりもなぜお前のような下位種が神の力を知っている?」鷹史は俺に対する不快感を露にしたが、「…ふん、まぁいいさ。あぁ、今まで生態系のトップに居座り続けていた人間を食べる力が俺達にはある。それこそ俺達が神であるという証明だ!」とすぐに不気味な笑顔に戻る。

鷹史の笑い声とカレーの匂いだけが部屋に充満している。

生態系の頂点に位置している人間を食す事ができる…すなわち食物連鎖の頂点に君臨してから神………なんとまぁ、幼稚な理由だろうか? そんな事で神になれるのなら、今まで何十年も苦行を続けてきた修行僧達は全員直ちに苦行をやめ、山を降り、人肉狩りに奔走すべきだ。

というか、神の存在を全く信じていない俺にしてみれば誰が神になろうが知ったこっちゃない訳だが、あいつがそんな理由で兄姉に食われたんだとしたら…あいつ、坂上 隼人はあまりにも哀れすぎないか?

そう思うと「じゃあ、神なら自分の肉親を食っていいわけか?」と自然と俺の口から言葉が滑り出ていた。

「当然だ。あんな親など神の血縁であっていいはずがない」神は憮然と憎しみを込めて答える。

………。
少し芽生えた感情が、自称神に対する怒りなのか隼人に対する同情なのかは小さすぎて分からない。
しかし、そんな感情を表すように俺はまた一歩足を踏み出し、「隼人はそんなくだらない理由で食われたのか…」と確認するように呟く。

が、この言葉に自称神は意外にも動揺する。
「――ッ、あいつの名を口に出すな! 何故だ!?…あいつ、隼人は俺達と同じ、神になる資格を持っていたのにも関わらず神になる事を拒みやがった。なぜ、下位種である朝倉 柚子(あさくら ゆず)を食べる事を拒んだ? なぜ、朝倉 柚子を庇った? 意味が分からん。だから天罰を加えてやった!」最後のセリフには隼人に対する困惑がこもっている。

そんな鷹史の様子に少し驚きつつも、俺は無視できないキーワードをその中で聞いていた。
「神になる資格だと?」俺は思わず聞き返した。

「味覚だよ」答えは俺の後ろから返ってきた。

その男の声に振り向くと、案の定、早乙女 カインが部屋の入り口に立っている。

最後に分かれた時と違う点があるとすれば、着ていた白衣が真っ赤な鮮血で染まっている点だろう。
無論、早乙女自身の血ではない。

もう一人の食人鬼であり、早乙女によって全身を切り刻まれた坂上 燕はお姫様のように早乙女に抱えられ、その腕の中で眠ったように気絶している。

血まみれたお姫様を見て、さすがに鷹史は狼狽した様子をみせる。
「なっ?――つ、燕!? き、キサマ…そ、その手を離せ!」

そんな鷹史を無視して早乙女は俺への話を続ける。
「すまんな、一条。燕ちゃんは俺が頂いちゃったぜ。一条はそっちで我慢してくれ」

それは別に構わないが、やけに来るのが早かったな。

「あぁ。東棟の一階で燕ちゃんを発見したからな。どうやら、あそこが食糧の保管場所になっていたらしい」

食糧(死体)保管場所ねえ、どうりでここには死体が見当たらない訳だ…俺、東棟に行かなくて良かったかもしれない…にしても、そいつ(燕)は生きてるんだよな?
早乙女に限って失敗はないと思うが、一応確認しといた方がいいと思わせるほど燕の服はボロボロで血に染まっている。

「当然。俺には可愛い女の子を殺す趣味なんてないよ。まぁ、ギリギリだけどね」と早乙女は自信満々に答える。
確かによく見れば、燕は呼吸のために浅く胸を上下させている。

「そういえば、俺もあんな感じで昔、早乙女にやられたんだったな…」3年前、俺も目の前の燕と同じように死ギリギリまでボロボロにされたことを思い出し、ぞっとする。

「ん? あぁ、懐かしいな。でもあれは、一条が自分で致命傷を避けた結果だろ。俺は最初の一撃から殺すつもりだったぞ」サラッと言う早乙女。

………聞くんじゃなかった。

と、「燕を返せと言っているだろうが!!!」多少、冷静さを取り戻したらしい鷹史が怒鳴り声をあげ、後ろのキッチンから武器を取り上げる。
ナイフだった。しかも、刃長20cm・厚みは1cmはあろうかという軍事用の無骨なナイフ。
鷹史はそのナイフを今にも5mぐらい先の早乙女に突き立てようとする剣幕である。

その剣幕に含まれている感情は、妹であり神でもある坂上 燕をあっさりと捕縛された困惑も少量含まれてはいるが、その大半は神である自分を前にして無視を決め込んだ早乙女により己のプライドを傷つけられたことによる怒りだった。

「黙れ」

が、そんな剣幕を早乙女はたった一言睨み返すだけで払いのける。
時間は一瞬、しかし莫大で濃密な濃さの殺気と威圧がその一言には含まれていた。
ゴクリと対象外の俺でさえも唾を喉奥に押し込んでしまうその殺気をもろに受けた鷹史は耐えられるはずもない。
「う…あ…」などと声を漏らしながら、鷹史は2、3歩後ずさる。
たった一言で鷹史は早乙女に対する戦意を完全に失っていた。

…ホント、なんて恐ろしい保健室の先生なんだろうね。やっぱり早乙女には「エンジェル」ではなく「悪魔」というあだ名の方がぴったりだ。

「てめぇの相手は後で一条がしてやるから今は黙っとけ」と冷たい声で早乙女はさらに追撃をかけると「さて話を元に戻すが、なぜ坂上 鷹史と燕ちゃんがカニバリズム(人食)を行うのか、燕ちゃんと話をしてやっとその理由が分かったぞ一条」と早乙女は上機嫌な声色で俺に話しかける。

「さっき、神になる資格が味覚とか言っていた話か?」と、俺はさきほどの確認の意味合いも含めて早乙女に訊ねる。

「その通りだ。やはりお前が言っていたように、彼らは人肉をおいしいから食べていたんだ」と早乙女。

? 俺は昼の保健室での会話を思い出し「ちょっと待てよ! 人肉は不味いって言ってたのはお前じゃなかったか?」と当然の疑問を口にする。

「そうだ、普通の人からすれば人肉は不味くて食えたもんじゃないはずだ。だが、彼らにとって人肉は最高に美味しかったんだよ」



「つまり、今までコイツらには味覚が無かったんだ。それが人肉を食べた時だけ味覚が回復し、味を感じる事ができるって訳。ほら、そうなるとコイツらにとって人肉は最高の食材だろ?」

な!?

「甘味・酸味・塩味・苦味・うま味、これら全ての味覚を感じなくなる味覚障害は稀だが確かに例はある。おそらくコイツらは後天性だろう。父親が厳格だったという報告からして原因は親によるストレスと言ったところだ。そのストレスが味覚障害となって現れたんだ。そして、何かの拍子でストレスに耐え切れなくなり親を殺した。試しに親を食ってみたのは、ストレス元を食べればまた味覚を取り戻せるかもしれないといった藁にもすがるような行為だったんだろう。だが、結果としてその行為は彼らに味覚を与えることになった。なぜなら彼らはその時すでに『人肉料理を食べると味を感じる事ができるエキドナ能力者』だったからだ。あり得ない話ではない。発現するエキドナ能力はその人の願望や欲望の影響を受けるからな」

そんな早乙女の説明の中に俺は一つの疑問点を見つける。
親を食べる前からエキドナ能力者だった? おかしくないか? 親を食べた時、つまり人を食べたと自覚した時にエキドナ能力者になったんじゃないのか?

「あぁ、俺も最初はそう思った。だが、その場合つじつまが合わなくなる奴が一人出てこないか?」と焦らすように言う早乙女。

!!!

早乙女にそう言われて、考えるまでもなくそいつの顔が頭に浮かんだ。
「坂上 隼人か…」俺はそいつの名前を口に出す。

「正解。一条、お前は昼に言ったよな? なぜ、被害者の坂上 隼人は花梨ちゃんの中華を食べても動じなかったのに、姉の燕が作った人肉入りのビーフシチューを食べた時は驚愕したのか? とね。それも、初めてビーフシチューを口に入れた時は人肉が入っていることなど知らなかったはずなのに。答えは簡単だ。隼人自身も味覚障害を抱えていて、すでに『人肉料理を食べると味を感じる事ができる』エキドナ能力者だったんだ。つまり珍しい事に兄弟3人とも同じエキドナ能力者だった訳だ。ちなみに人肉を食べる前から『人肉料理を食べると味を感じる事ができる』エキドナ能力を身に付けていた理由としては3人とも普段から心の奥底で考えてしまっていたんだろう。『味覚を取り戻したい。両親(人間)を殺せ(食べれ)ば味覚が戻るかもしれない』とね。それが知らずのうちエキドナ能力として発現し、そして、人肉を食べた時に自分のエキドナ能力を初めて自覚したんだ」

「………」
謎が繋がっていく。
全てを知って最初に思い浮かんだのは、花梨の中華を食べた時に見せた坂上 隼人の完璧な笑顔。
あの完璧な笑顔と「おいしかった」という言葉は嘘であり、隼人にとっては「日常」だったのだ。
すっかり騙された。

そんな味のない「日常」の中、突然現れた味のある「非日常」を隼人はどう感じたのか?
おそらく、抗うことは不可能で、全てを捨てても手に入れたい魅力的な楽園だと思ったはずだ。
種類は違うが、偶然にも俺は坂上兄弟と同じように動物の本能といえるようなある欲望を起源とするエキドナ能力者であり、その楽園の魅惑は誰よりも知っている。

そんな、魅惑に隼人は抗い、否定したのだ。
「その理由が分からない」と目の前の食人鬼・鷹史は言っていた。
だが、俺にはなんとなくその理由が分かる気がする。
分かるからこそ、信じられない。

―――なんて、なんて強い人間なんだろう、坂上 隼人という人物は。俺には到底真似できない。


お前は神なんかじゃない

それら全てを踏まえた上で俺は目の前の自称神に言ってやる。

「な、なんだと?」早乙女の威圧により呆然としていた鷹史は、思い出したように俺に視線を向ける。

テメェは神なんかじゃないって言ったんだよ。
人間食ったら味がして、それが人間を食う権利だと勘違いして神様気取りか!?
はっ? 笑わせんな! そんなの人間でも神でもねぇ。
―――ただの「動物」だよ。

「な!? き、キサマ、神を侮辱する気か!?」自分を完全に否定されたと知り、鷹史は壮絶な剣幕を俺に向けてくる。

俺はさっきの早乙女のようにこの剣幕を一瞬で払いのけられるような威圧を持ってはいないし、払いのける気もない。
だから、鷹史の剣幕を正面から受け止め、はっきり言ってやる。

そもそも前提が間違ってんだよテメェは。
人間が生態系の頂点だって? ちげーよ、人は頭脳を上手く使って生態系…食物連鎖から抜け出したにすぎねーんだよ。
人は素手でライオンや熊に勝てるか? 勝てねーよ。頭脳から生み出した武器や檻でなんとか誤魔化しているだけだ。
そんな人間を食べた所でお前は食物連鎖の頂点には立てねーよ。
テメェは人を食べる事で、人間であることを辞め、単なる一匹の動物として食物連鎖の中に自ら戻って行っただけなんだよ。

「黙れ、黙れ、黙れ―――!!!」鷹史は叫び、ナイフを持つ右手に力を込める。

それでも俺は全てを言い切るまで黙るつもりはない。

さっきテメェは隼人がどうして仲間にならなかったのか分からないって言ったな。
答えは簡単なんだよ。
あいつは、「動物」ではなく「人間」であろうとしただけなんだよ。
目の前の魅惑に抗ってでも隼人が「人間」であろうとした理由が分かるか?
テメェには絶対分かんねーだろうし、俺も信じられねーよ。
だけど、理由はたった一つしか考えられねーんだよ。
あいつ、坂上 隼人は朝倉 柚子という一人の「人間」とこれからも一緒に生きて行きたいと思ったから「人間」であることを捨てられなかったんだ!
あいつは最後まで誰よりも完璧な「人間」だったんだ!!!

「う、うるさいうるさ―――い!!!」俺の口を塞ごうと、鷹史はナイフを両手で前に構え、全力疾走による刺突を繰り出す。

弟と同じく運動神経は良いようで、その疾走は早い。
俺と鷹史との距離は4m程度しか空いていない。
並の人間なら致命傷は避けられない完璧な刺突。

が、俺には「刃物で戦う時は、避けられやすい点による刺突ではなく、避けにくい線による切りつけを狙うんだよ」と、どーでもいい事を考える余裕さえあった。

俺は自分のエキドナ能力を発動させる。
大事なのは発動しやすいように頭の中でイメージすること。
「全身10%解放」「右手40%解放」と、イメージした事を頭の中で反芻する。
そして、イメージ通りに力がみなぎるのを感じると共に俺は動く。

まず、鷹史の刺突を左にかわすのと同時に、走り抜けるはずだった鷹史の右手首を上手く横から自分の右手で掴み、軽く右に捻ってやる。
と、「グッキャッ」と鷹史の右手首の骨が砕ける音がして、もっていたナイフが手から離れる。
「ギャ…グっ」鷹史の悲鳴が喉から全てこぼれる前に、右手首から離した右手で鷹史の喉を掴み、締め上げるように右手のみで鷹史を空中に浮かべる。
「ぐっ…は…ッ…」と息苦しそうな鷹史の悲痛と、ナイフが虚しく地面に落ちる金属音だけが部屋に響き渡る。
それら、たった2秒にも満たない間に決着がついていた。

俺はさっき鷹史に言いそびれた事を言う。

俺は別にお前が「動物」に戻ったことを悪だとは言ってはいない。
だが、自分は「動物」だと自覚すべきだったな。
だったら、気づけたかもしれなかったのに。
「動物」に戻るという事は他の「動物」に狩られても文句は言えないっていう事実にさ。

「―ッ…はっ…な、…何者…だ…お前……」急に訪れた死への恐怖を少しでも和らげようと、鷹史は酸素を求める口を必死に開け、死をもたらす正体を確かめようとする。

偶然にも初対面した時と同じ質問に、今度はちゃんと答えてあげることにした。

だから、俺もお前と同じ単なる『動物』だよ」と。

そうして、俺は右手に力を込めた。


「ゴギュッリ」という鉄筋がひしゃげるような鈍音を奏でながら鷹史の首が折れる。
脳に血液と酸素が循環しなくなり、痛みを感じることなく口端から少量の血泡を吐きながら、鷹史は絶命した。

その瞬間。
―――――!!!!!
一条 茘枝の体の芯を一直線に焼き焦がすように、白い電流が駆け巡る。

それは純粋な快楽の波。

視界がチカチカと真っ白に点滅する。
全身がビクビクと痙攣する。
たったの数秒、恐いぐらいの大量の快楽が俺の体全てを侵食する。

何も考えられない。
だけど実感する。

この快楽を上回る幸せは、この世のどこにも存在しない。
俺はこの瞬間のためだけに生きている。


「おつかれさん」
快楽の絶頂が過ぎ、少しだけ思考を取り戻し始めた俺に早乙女は声をかける。

俺は「あぁ」と、ボーとした頭で答え、未だふやけている脳に鞭打って自分のエキドナ能力を解除させる。
「全て解除」頭の中でそうイメージし、能力が解除される。

力を失った右手が支えきれなくなった何かを地面に落とす。

ドサリと地面に落ちたそれは、首がぐにゃぐにゃになった鷹史の死体。

「それは東棟にあった他の死体と一緒に、後で処理班に処理してもらうから、さっさと帰るぞ」と、燕を抱えながら早乙女は言う。

「りょーかい」俺は火照った体を引きずりながら御川市旧第四植物工場をあとにした。


外に出ると先ほどまでの大雨は嘘のように止んでいて、散った曇雲の隙間から月光が降りそそいでいた。
それは、大雨の名残である浅い海に反射し、なんともいえない神秘的な輝きを放ち、少しずつ俺の快感を冷ましてくれる。

そして、思考がクリアになっていくのと同時に、俺はあることが気になった。

「そういえば、朝倉はどうなるんだ?」俺は早乙女に訪ねた。

そう、事件は解決し、謎も解明したが、坂上 隼人の彼女であった朝倉 柚子の件がまだ残っていることを思い出したのだ。

恋人が殺される場面に居合わせてしまった彼女は、そのショックから今は昏睡状態に陥っている訳だが、いつかは目覚める時が来るのであろう。

その時、彼女はどうするのだろうか?

坂上 隼人はその兄弟に殺されてしまったはずなのに、世間では単なる交通事故で処理されてしまっている事を知って彼女はいったい何を思い、どう行動するのだろうか?

おそらく、世間に真実を訴えようとするのではないだろうか?
自分の悲しみを少しでも誰かに分かって貰うために。

それを早乙女が所属する組織「ラマルキズム」が許すとは思えない。

ならば、朝倉 柚子は目覚める前に組織に消されるのが道理ではないか?

…そうなると、なんとも後味が悪い。
いくら俺でも何も罪のない奴が殺されるのは見たくない。

「別になんにもしないけど? 時間が経てば退院して今まで通り普通に生活していくんじゃない?」

が、返ってきた返答は俺の心配を裏切るものだった。

大丈夫なのか? 本当の事がばれるんじゃないのか?

「ありえないな。この世は良かれ悪かれ、多数決主義だ。もうこの事件は普通の可哀想な交通事故として周りの全ての人々に認識されている。彼女が一人本当のことを言ったとしても誰も信じない。それに事実彼女はこの件で精神を壊した。だから、『おかしな事を言っている可哀想に。まだ精神が完全に回復していないのね』と思われるだけさ」

………。

「まぁ、安心したまえ。そしたら彼女は気付くだろう。どうやって、自分がこれからこの世界で生きればいいのかを。どうやったら、頭が可哀想な人として思われないようになるのかを。それは、自分でも認めることさ『私の彼氏は交通事故で死んだ』とな。そしたら、この世界で上手くやっていける。彼女は少数から多数の意見になるのだから。そして、時と共にこの事件は記憶から薄れていく。忘れはしないだろうが、痛みもなくなる。他の人と結婚して、子供を産み、他の人と同じように死んでいくだけだよ」

もし、朝倉が多数意見になることを拒んだら?

「その時はこの社会から排除されるだけだよ。人は自分とは違う考えのモノを排除しようとするからな。人は一人では生きていけない。ましてはなに不自由なく暮らしていた彼女…いや日本人ならなお更さ。排除された時、彼女は自殺をするのか? はたまたエキドナ能力が開花して、討伐されるか、サンプルにされるか、保護されるか。まぁ、社会に適応するのはもう無理だな。一条の様にエキドナ化しても、社会に適応できる人間はいるが、この場合、彼女は社会に適応できないからエキドナ化するわけだから、それはありえない。ただそれだけの話だよ」

「なんか、あまりにも…」
―――可哀想だな。と俺は朝倉に同情しようとして、しかしそれを口に出すのを止めた。

「お前はうわべだけで同情するような偽善者なのか?」と、隣にいる早乙女が視線だけで俺にそう言ってくるのを感じて、俺は自分が朝倉に同情していいような人間ではない事に気が付いたからだ。

なぜなら、俺は朝倉がエキドナ能力者になることを心の何処かで望んでいる。

そうなれば、俺が殺人を行えるチャンスが増えるかもしれないから。

そんな俺が朝倉に同情していいはずがない。

………。
俺は夜空を見上げる。

せめて、あいつにだけは冥福を祈ろう。
坂上 隼人…朝倉と一緒に生きるため最後まで「人間」であることを選んだ、哀れな、しかし、完璧な「人間」のために。

大雨の後に見える星空はやけに輝いていて美しかった。


と、そんな静寂な雰囲気をぶち壊す、軽快な電子音が鳴り響いた。

びっくりすること一瞬、それはすぐに自分の携帯電話の着信音だと気付く。
急いでポケットから携帯電話を取り出すと、表示画面には『瀬々木 花梨』とある。
俺は携帯電話の通話ボタンを押した。

『あっ、もしもし茘枝? 花梨だけど』
少しトーンが低い花梨の声がする。

「どうした? 何か用?」
花梨が電話してきた意味が分からないので、俺は気軽にその理由を尋ねる。

が、『何か用? じゃなぁぁぁぁぁぁい!!!
急に花梨がキレた。
あまりの音量の大きさに俺は右耳の鼓膜を少しやられる。

『大丈夫だったの?』
花梨は恐る恐る聞いてくる。

「? なにが?」
やっぱり意味が分からない。

『だぁかぁら、ポリープ! 治りそうなの?』

…あっ! 俺はすっかり忘れていた。
早乙女のせいで俺は今、胃にポリープがあるかもしれない病人として学校では扱われていることに。

『あの放送の後、ずっと昼休みの間待ってたのに茘枝、帰って来ないんだもん。放課後になって教室と保健室両方覗いても茘枝の姿は見えないし…放課後、病院にでも行ってたの? そんなに悪かったの? 早乙女先生なら治せるよね?』
花梨はまくしたてる。

「い、いや…心配するほど悪いものじゃないってさ。さ、早乙女先生が言うには薬を飲めばすぐに治るって。ただ、その薬が保健室には置いてなかったから、病院まで行って調合してもらってたんだよ」
俺は慌てて誤魔化す。

『そ、そうなの? ふにゃぁぁ、よかったぁぁ。さすがは早乙女先生。心配したんだからねっ!』

「ごめん」

『治るならいいよっ! ところで、もう茘枝は晩御飯食べちゃたかな? 少しおかずを作り過ぎちゃったから、食べてないならおすそ分けしたいんだけどっ?』

「そういや、まだ食べてねーけど。…けど、今の俺は少しシビアだぜ? なにせ、ビ−フシチュー・ハンバーグ・コロッケ・ミートソーススパゲッティ、それとカレーはお断りだ」

『ふへ? なんで? まぁ、でも肉じゃがだから大丈夫だよねっ?』

さすがは俺の食糧補給係り。
「お―。じゃあ、ありがたく頂く」

『分かったっ! それじゃあ後で茘枝の家に持って行くねっ! ………ねえねえ、茘枝?』

「ん?」
まだ何かあるのか?

地球!!!!!
電話の向こうで花梨が元気よく叫ぶ。

再び俺の右耳がやられる。
「うおぉ!? お前は俺の鼓膜を破る気か!」
そう文句を言ってから、やっと疑問に思う。
「は? 地球? どうした急に? 地球が丸いことに今更気が付きでもしたか?」

そんな当然の俺の反応に、花梨は『へへ! にゃはは』と不気味な笑い声で答える。
とうとう、頭がイッてしまったようだ。

『ねえ、茘枝。 きょうの昼休みの出来事覚えてるっ!?』

「昼休みの出来事?」

『そう。晃君が教えてくれた、自分のことを意識している異性が誰なのか分かる占い! 自分が好きな色と形で想像できる物を叫んで、1番最初に声をかけてくれた異性が自分に好意を持っている人ってやつ!』

………………………………………まてまてまてまてまて。
非常に、ひじょ―――に嫌な予感がする………

『それでね、私の好きな色は「青」で、好きな形は「丸」なのっ!』

「………」
は、は、はめられたぁぁぁぁ!!!!!!?
俺は完璧に花梨の罠に引っかかっていた。

『へへへっ 茘枝って私に好意を持ってたんだ!? 困っちゃうな―にゃはは! どうしよっかな―』とデレデレ声を出す花梨。

そして、「ち、違…」と俺が否定する前に、花梨は電話を切った。

ツ―――ツ―――と、虚しい音だけが携帯電話から聞こえる。

「はぁ…」
これ以上、携帯電話に否定の言葉を吐いても意味がないので、俺は大きなため息をつきながら携帯電話をポケットに戻す。
あのヤロウ、後で覚えときやがれ。

…それにしても。

花梨のせいで、俺の心の中で重く渦巻いていた先ほどまでの気持ちはすっかりと無くなってしまっていた。

もう少し、感慨深さに浸かっていたかったのだが…

「…まぁ、いいか」俺はポツリと呟く。

さてと、お腹もすいた事だし、花梨の肉じゃがを食べに家に帰りますか!

大きすぎる水溜りをバシャりとわざとらしく踏みつけながら、俺は歩き始める。
偽りの「人間」として、再び退屈な自分の「日常」に戻るために。
廃れた植物工場を振り返ることは一度もなかった。



第一章 『Tasted human』 完

第二章 『ドッペルゲンガー』に続く

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